鼻炎対策ブログ(仮)


by touyokosennouta
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社会人

になったら、大人になると思ってた。

もうちょっと前は、成人する頃には大人になってるだろうと思ってもいた。
でも何も変わってなかった。

で社会人になってみて。

やはり何も変わってない、気がする。
変わってない、と言うか少なくとも大人にはなっていない。

分からないことだらけ。
出来ないことだらけ。

高校まで受身の授業を受けてきて、大学に入ったら自分で学ばなきゃいけない、意味がない、そのギャップに対する焦り。
社会人になったら、何のために大学に行ったのか、何が出来るようになったのか、まるで分からない、そして小さい頃に描いてた、何でも出来る大人=社会人と現実の自分とのギャップに対する焦り。
まるで自分が子供であるかのように、でも子供ではない自分(There will be love thereみたいな文章だな、ちょっと違うか)の存在。

新芽でも美味しい果実でもない、そんな僕らには未熟と言う言葉が良く似合う。

草花が、芽が出始めたら伸びていくことの初心者、つぼみが出来たら花を咲かすことの初心者、実が出来たら熟させることの初心者であるように、小学校に入ったら幼稚園の年長組だったのが小学校の初心者になり、中学に入ったら小学六年生だったのが中学校の初心者になる。
社会人になったら、社会人の初心者になる。
今まで何かのトップにいたのに、気付いたら最下層になってしまう。
また一からやり直し。ただ0からやり直すわけではないのだけど。

そう考えていくと、もし父親になったとしても自分は大人ではありえないだろう。
父親としての初心者になる。何も分からず、何も出来ず。

でもそこから何らかの確たるものを築いていけるはずだ。
何らかの気付きを得ていけるはずだ。

重松清という作家の『流星ワゴン』の一文。

親父って、ほんと、大変だよね―――。


あぁ、きっとそうなんだろうな、と思う。なんとなくわかる。親になったって未熟なんだろう。


ここまで書いてきて分かったこと。
たぶん「大人としての自分」というのは存在しないのではないのだろうか。
小さい頃に、自分より幾つも年を重ねた人を見て、「この人たちは大人なんだな」と思ったのと同様に、小さい子がもっと年をとった僕を見て(ひょっとしたらもうそんなふうに思われているかもしれないけど)、「この人は大人だな」と思う、つまり誰かから見て、勝手に「この人は大人だな」と思うことでしか「大人としての自分」は存在できず、ここにいる僕という存在は決して大人ではありえないし、大人にはなりえないのではなかろうか。

だからどうしたというわけでもないが、幾つになったって迷うのも焦るのもあたりまえ。
それでいい、それがいい、と思う。


さてさて―――
下の写真は土曜日に行った、曼珠沙華(まんじゅしゃげ=彼岸花)祭り(埼玉の巾着田というところで9月終わりごろまで開催?)の近くにあったコスモス畑。
曼珠沙華関係ないけど。
ちなみにコスモスの花言葉は乙女の真心、曼珠沙華は悲しい思い出、だそうです。

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by touyokosennouta | 2006-09-24 13:57 | その他